2016年に公開されたアニメーション映画『この世界の片隅に』は、日本だけでなくおよそ70か国で公開、あるいは映画祭で上映されるなど、日本アニメの魅力を世界に発信しました。2019年にはさらに、エピソードを加えて新作とした『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開されました。今回は、阿佐ヶ谷に本拠地を構える二つのアニメーション制作スタジオ、株式会社MAPPA(以下、「MAPPA」)と株式会社コントレール(以下、「コントレール」)の代表取締役を務める大塚学さんと、『この世界の片隅に』『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』で監督を務めた片渕須直さんにお話を伺いました。(写真左が片渕須直さん、右が大塚学さん)
杉並とアニメーション制作
―お忙しい中お時間をいただきありがとうございます。さっそく、お二人の自己紹介と両者の関係についてお伺いします。
大塚学氏(以下、大塚):制作スタジオMAPPAとコントレールの代表取締役をしております大塚です。
片渕須直氏(以下、片渕):MAPPAで監督として『この世界の片隅に』、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を作りました片渕です。今はコントレールで監督として次回作に取り組んでいます。
大塚:制作スタジオMAPPAとコントレールはグループ会社です。元々はMAPPAだけでしたが、片渕監督の作品に特化したスタジオとして、コントレールという会社を2019年9月2日に新しく作りました。
片渕:先ほどの二つの映画で、大塚さんにはプロデューサーとしてお世話になっています。
大塚:監督は「お世話になっている」と言ってくれましたが、日々作品制作をどうやってやるのかを勉強させていただいている感じです。中々飲みに行ったりはしませんが。
片渕:あれ、でもアメリカには一緒に行きましたね。あれはエミー賞でしたか?『この世界の片隅に』がノミネートされたときには一緒に行きました。
大塚:そうですね。映画祭のためにアメリカへ行ったり、広島へ行ったりなどロケハンも一緒に行動しています。
―杉並区についてお伺いします。杉並区は日本でもアニメーション会社などが集積している場所でもありますが、杉並区・阿佐ヶ谷に本社を置いていることについてはどのような経緯があったのでしょうか?
大塚:杉並でアニメーションを作っていることについては意味合いがあるのです。2011年にMAPPAは設立されましたが、創設者の丸山正雄はアニメーションスタジオ『マッドハウス』を杉並でやっていました(編集部注:旧阿佐ヶ谷ボウルに本社・スタジオを構え、2004年に荻窪へ移転後、2010年に中野へ移転)。初心に戻るという意味も込めて阿佐ヶ谷でMAPPAという会社をスタートさせました。
片渕:私も丸山さんとずっと仕事をしていましたから、杉並で仕事をするようになって25年以上になります。
大塚:その当時マッドハウススタジオがあった場所は現在大きなマンションになっています。
片渕:今のスタジオのすぐ隣でした。丸山さんが阿佐ヶ谷でスタジオをやっているのはおいしい食べ物屋さんがあるから、ということもおっしゃっていました。私の中では今も変わらず「おいしい街」です。
大塚:駅からスタジオも近いですし、JRも丸ノ内線も両方使えるということで、社員は便利だと思います。片渕監督のおっしゃるようにおいしいご飯屋さんがあるというのも特徴の一つかなと思っています。社員も喜んでいると思います。
―東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム(以下、「杉並アニメーションミュージアム」)とは何か関わりはありますか?
片渕:もちろんです。館長でもあるアニメーション作家の鈴木伸一さんとはずっと昔からご一緒させていただいております。『この世界の片隅に』は2016年に完成しましたが、制作は2010年からしていました。準備期間の間にたくさんの人に「これからこんな映画を作るのだよ」と認知してもらいたいなと思い、作品ができる前からポスターを作って杉並アニメーションミュージアムに展示してもらったという関係もあります。
大塚:最近オンエアされた作品を展示してもらったり、イベントをやってもらったりしています。
片渕:そういう場所が身近にあるわけですから、これからも我々の作品を展示してもらいたい。協力関係みたいになっていくといいなと思っています。
大塚:杉並の人に見てもらえると良いですね。
片渕:地元でこんなものが作られているのだと知ってもらえる場所であってほしいと思います。
アニメーション制作の現場で
―『この世界の片隅に』では手描きタッチの作画がとても印象的です。日本のアニメといえば手描き風ということもありますか?
大塚:片渕監督を始め、日本のアニメーションを引っ張ってきた先輩方の影響が大きいと思います。日本のアニメ=手描きという印象を作られたと思います。
片渕:3DCGで手描き風の絵を作る方法をとる作品も増えていますが、自分たちの仕事としては、やはり今も紙と鉛筆と消しゴムによる作り方を守っています。このことで、日本の有名なアニメーション監督の押井守監督とお話したことがあるのですが、『この世界の片隅に』を見てくださった押井さんが「手描きは良いな」と言ってくださったのです。押井さんは手描きでもCGでも素晴らしい作品を作られていますが、CGのアニメはその時のテクノロジーの技術的な発展度合いがそのままに映像に反映されています。ある瞬間には最高峰だけど、何年か経つとさらに卓越した技術が生まれていて、取り残されて古く見えてしまう。しかし、人間の手は更新されない。その時に頑張って描いたもの、それは更新されないと。それは私もそう思っています。
大塚:コントレールでは積極的に人材を募集して、教育に力を入れ、ゼロから手描きのアニメーターを養成しています。
片渕:紙に描いてパラパラめくって初めて「自分の目指している動きはこうだったんだ」と分かることもあります。その作業をしないと動きを確かめられない。描いて消しゴムをかけて、自分が思っている「こういうものを描きたい」というイメージに近い物を探す作業をすることが大事です。我々も、絵が動くことの喜びから始まっています。その作業を何十年も続けてきていますが、今が手描きのアニメの技術が最高に達している瞬間だと思います。
大塚:最近のアニメの数はテレビシリーズを中心に本数が増えています。作業の効率化を図るためにCGを使う場面も多々ありますが、本来作り手のツールはお客さんには関係ないと思っています。片渕監督が仰った「紙、鉛筆、消しゴムで描いたもの」と「デジタルで制作したもの」で違う印象を与えたくない。デジタルも手描きのアニメーターも線を動かすという点においては、同じ水準のレベルであることが理想です。
片渕:我々の作品の中にもCGで作ったものを混ぜて使ったこともありましたけど、観る人に二種類のものが混ざっていると気づかれてはいけない。大塚さんが言ったみたいに我々の種明かしをしてはいけない。画面の中で種明かししないで、全部同じものとしてお客さんには見てもらいたいと考えています。
大塚:デジタルでも紙でも、片渕監督の期待に応えられる水準のアニメーターを育成したいと思っています。
国境を超えるアニメーション
―日本のアニメは世界の市場で高いシェアを占めています。現状のアニメーションの制作現場で、そうしたことについて何か感じることはありますか?
片渕:一昨年(2019年)、フランスでアニメーションを作っている若い人たちに集まってもらいワークショップをしました。「次は僕たちはこういう作品を作りたい」と話したら、やりたいと手を挙げてくれた人がいたので、日本に来て一緒に仕事ができたらいいなと思っていました。今はCOVID19の影響で国境を越えた人の行き来が難しくなってしまっていますが、(行き来が)可能になったら日本に来てもらえればなあ、と思っています。作品の中には文化的に日本人でないとわからないニュアンスもあるけれど、必ずしもそうではない部分は確実にあります。海外の人たちのアニメートのセンスを我々の仕事に取り入れられたら、その分だけ豊かになると思います。アニメーションの仕事が海外の人に開かれた仕事になっていったら良いなと思います。
大塚:MAPPAという会社は業界の中でもかなり多国籍な会社だと思います。
片渕:フランスで「興味があります」と手を挙げた人は、「友人はすでにMAPPAで働いています」と言っていました。
大塚:色々な国の方が活躍しています。大事なことはアニメーションを作る、作りたいという人が集まって一緒に作るという姿勢だと思います。現在オンエアされている「呪術廻戦」も監督は韓国人の方がやっています。
片渕:日本のアニメーションと海外のアニメーションでは味わいに違ったところがありますから、そうしたものに興味を持っている人は、どんどん日本から出て海外作品に参加すれば良いと思います。フランスのアニメーション作品にも日本人が制作に参加していたりもしますし、逆に日本のアニメに興味があるなら日本に来て仕事をするという事がどんどん可能になれば良いと思います。今、東京藝術大学で教えていますが、学生の半分は中国の方です。
―アニメーションに国境はないのですね。
片渕:そのとおりです。海外の映画祭などに行くとよくわかります。どういうタイプのアニメーションが好きかという違いはあるけど、それは国境ではないです。今は我々の現場っていうのは日本にとどまっていない。その中で日本のアニメーションが好きなのだという人がどこに行ってもたくさんいる状況です。我々の中には国境という意識は本当になくなっています。
大塚:配信でアニメを見るというのが世界で広まってきています。そのため海外市場ありきでアニメを作っています。作り手もビジネスもお客さんも国境は関係ない。
片渕:新型コロナがなければ、去年(2020年)も海外に5回くらい行けたのに、行けてない。今インタビューを受けているこの部屋でも、香港やフランスに向けてオンラインで話しました。そういう機会が増えましたね。この場所自体がカメラやパソコンを通じて世界につながっているという感覚です。
―『この世界の片隅に』はおよそ70か国で上映されました。
片渕:最初に配給が始まったのがタイ、その次にもっと大きな規模で公開されたのがメキシコでした。メキシコは一度目の配給ではラッピングバスを走らせるなどプロモーションもしてくださって。公開期間が終わった後に、メキシコの映画評論家の方が「まだメキシコの人にはこの映画が伝わっていない」と別の配給会社に働きかけて、二度目の公開をしたりもしました。フランスはすごく熱心に配給してくださいました。フランスの映画祭に行った時に現地の配給元と直接会話し、フランス公開に合わせて映画内に出てくる「何年何月」などという字幕を全部フランス語にしました。フランスでも上映が止まらなくて、週末になるとどこかの映画館で上映されているという時期が長かったです。その他にも、アメリカを始めたくさんの国で上映されました。
―どのような反響がありましたか?
片渕:いまでもSNSを見ると『この世界の片隅に』を見たという方の声を毎日聞くことができます。海外の方が発信した感想を日本語に翻訳しSNSに上げてくださるファンの方もいます。様々な言語で書かれている感想を聞けるのは嬉しいことです。残念なことに『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は海外では、ごく一部の映画祭を除いて配給上映されていません。先日、フランスの国立アニメーション学校で学生たちが作ったものをリモートで講評する機会がありました。学生は世界各国から集まっていますが、この状況で自分の国にいる学生さんから「『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、いつ私の国で公開になるのですか」と聞かれました。そんな風に期待していただいていますので、状況が落ち着いたら私も海外へ行って直接ファンの方と会う機会を作り、映画の中に現れる日本人にしかわからない歴史的なニュアンスや、リサーチなどの制作の話もしたいと考えています。
『この世界の片隅に』
―『この世界の片隅に』では大変繊細な描写、特に広島市や呉市の作画が印象的でした。どのようにリサーチなさったのですか?
片渕:歴史の教科書だとごく簡単な文章で書いてある歴史上のページの出来事を、もっと「その年代、その時、その場所に立ったらこんな風に感じるんじゃないか」と体験的に描きたかったのです。『この世界の片隅に』の原作漫画もそういう考え方で作られていて、原作者のこうの史代さんも「そこにいた人のことやどんな出来事の間にいたのかという事を描いてみたい」と言っておられました。ただ、こうのさんは巧みで、この漫画の舞台はおそらく広島なのだろうと読み手に思わせながら、作品中ではあえて説明しません。読者が自分で気づき、調べてくれることに期待されているのです。私は原作を最初に読んだ時にはまだ、広島市には一度だけ、呉には全く行ったことがない状態でした。「ここに描かれているのは広島や呉のどこなのだろうか」と思い、知りたいなと思いました。物語の中に実際に広島にあった橋が出てきます。調べて初めて分かるものですが、この橋は1945年8月6日、原子爆弾を落とすときに目標にした橋です。T字型の橋でしたから上から見ると形が良く分かるのです。その橋は偶然にも残りましたが、橋の上で子供だった主人公が男の子と出会って、原爆の後で橋の上で今度は夫になったその男の子と一緒に生活していくことを再確認していくという場面があります。どの橋かわからないように描写されていますが、形から調べていけば原爆がまさに落ちた真下にあった橋だと解ります。まずは、そのようなことを調べることから始めました。
―どのように調べていったのですか?
片渕:ほとんど何も知識が無い状態から、例えば呉という街のことを描くのには、通りの店を一軒一軒調べたりしました。当時の写真をできるだけ調べて住所通りに並べ直してみて、「この通りはこんな風なお店の並びになっているのだな」ということを知りました。何通りの何丁目には何屋さんがあったと今でもわかります。調査していたら広島の古本屋さんが「そんなこと調べているなら当時の電話帳があるよ」と電話帳を出してくれた。そうしたいろんなものを集めて組み合わせることで、いつかその時代を描き出せるようになっていました。
―そこまで細かく調べたのですか。観客からはどのような反応がありましたか?
片渕:アニメ作品の観客層としては異例なのですが、1945年の世界を体験した世代の方々、つまり70~80代のお客さんも映画館に多く来られました。中には90代の方もいらっしゃいました。そうした方々が「あの時代の雰囲気をこの映画はよく表している、確かにこういう空気の中に私たちはいたのだ」と話してくださいました。90代の方と話した時には、「自分の人生はこういうものだったと証明してくれる映画」だという意味のことを言ってもらえました。当時呉に住んでいた方が「本当にこんな町だった」と言ってくださったということをSNS経由で聞いたこともありました。私たちが調べて、推測して描いたことに、実際に体験した方が「そのとおり」と答えをくださった。答え合わせができたのです。
―こうの史代さんの『この世界の片隅に』を映画化するというのは初めから決まっていたのでしょうか?どのような経緯で映画化に至ったのでしょうか?クラウドファンディングも実施されました。
片渕:『この世界の片隅に』の前に作った映画「マイマイ新子と千年の魔法」は、1955年の山口県の街を舞台にしていました。「1955年の映画の中にいる大人の人たちは1945年も体験しているのだなあ」と、さらに時代をさかのぼって考えていけたらいいなと思っていました。そんな時、山口県の方がちょうど良い話がありますよと『この世界の片隅に』の原作漫画を紹介してくれました。読んだ時に自分の手でアニメーションにしたい、他の人に渡したくないと思いました。その時に在籍していた会社では企画が通らなかったので、プロデューサーだった丸山さんと新しい会社を立ち上げようとMAPPAを作りました。その時には一生付き合っていける本と出合ったという思いがありました。
―そのために新しい会社を作ったのですね。
片渕:これまでにない新しい企画だと通りにくい、ということもあります。今までのアニメには『この世界の片隅に』のような映画はありませんでした。出資者にとって、前例の無い映画を製作し、そこに出資するというのは、決断のための根拠がないのですから難しいのです。面白いと言ってもどれくらいの人が映画館に観に来るかわからない。そこで考えたのがクラウドファンディングでした。もちろんお金を集めるという意味もありますが、世の中の人の中で「お金を出してでも映画が出来上がって欲しい」と思う人がどれほどいるか、その数を示したかったのです。我々が実施したクラウドファンディングは映画のほんの一部の5〜10分のパイロット版(作品に先行して制作される映像)を作るだけの予算でしたが、たくさんの支援があっという間に集まりました。この作品にお客さんが存在しているのは確実という根拠ができ、結果として多くの出資者が集まりました。この映画は新しい冒険だけれども受け止めてくれる人がいる冒険だと示すというのがクラウドファンディングの意味だったと思います。
大塚:クラウドファンディングとアニメーションの良いモデルケースになったと思います。日本のアニメにこういう制作の形があるのだという事を示せたと思っています。
片渕:僕らがお客さんに頼りすぎる、というのはデメリットと言えるかもしれません。僕らは僕らで支持を証明されたのだったら制作に集中することを考えないといけないですね。
―『この世界の片隅に』の制作秘話はありますか?
片渕:『この世界の片隅に』は2010年夏に作り始めました。こうの史代さんの原作を途中まで読んで、丸山さんに「これを作りたいです」と言ったのが2010年8月です。それから作りはじめて2016年に公開、2019年に『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を公開して、手直ししてブルーレイディスクとして発売したのが『この世界の片隅に』が2017年9月、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が2020年9月でした。丸10年です。最初から最後までずっと調べ通しでした。情報が後から入ることもあります。ブルーレイ版ではすずさんの包丁の形が劇場公開時とは異なっています。この時代の広島ではこのタイプの包丁を使っていたというのが解って描き直しました。
―全シーンですか?そこまで細密な描写にこだわる理由はあるのでしょうか?
片渕:当時のことを知りたいというよりは、自分たちがまず当時を体験したいと思うんです。「世界」というのは小さいたくさんの物があって成り立っている。広島ではこの時代にこの形の包丁を使っていた、この草が生えていたなどとわかることによって、自分の周りに世界が出来上がっていきます。作り手である自分がその世界の中に存在したいと思いますし、お客さんにも味わってもらおうということです。
新作『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』
―『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』という映画も公開になりました。これはディレクターズカット版や特別版ではないとのことですが、詳しくお聞かせください
片渕:『この世界の片隅に』は2016年に公開されました。これはすずさんという主人公が何を体験したかであり、こうの史代さんの原作の中のある一部分を抜粋して構成したものです。こうのさんは、主人公はすずさんというより「戦争」そのものなのだとおっしゃっていました。最初の作品はそういう視点に集約させて制作しましたが、そうした戦争の中で一人の人間として自分のことを考えるすずさんの姿ももっと描きたい。周りにいる他の人たちのことももっと考えたい。すずさんには自分の人生がありますが、他の人にも等しく人生がある。そうして作ったのが『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』だったのですが、そこでむしろ見えてきたのは周りにいるたくさんの人生だったわけです。この映画は2016年『この世界の片隅に』とは別の映画です。すずさんが世界の片隅に立つ人ならば、今度はもっとたくさんの片隅が描かれるのだ、という意味からこのタイトルにしました。
―公開は一昨年(2019年)でした。
片渕:2019年12月20日劇場公開となり(2021年の)現在も公開されています。同時に夏からはDVDや配信などでもたくさんの方にご覧いただいています。こういう時期ですが、ぜひ映画館で見てほしいなと思っています。周りから音が聞こえてきて、その空間自体を体験してもらいたいです。2016年の映画と同じカットも使用していますが、意味合いが変わってきています。また違う体験ができると思いますので、まったくの新作だと位置づけています。
これから、そしてコロナ禍で
―これからの作品や会社の展望についてお聞かせください。
大塚:コントレールという会社においては片渕監督の作品をいかに世に出すか、プラスして片渕監督が培ってきたアニメーションというものを次世代のアニメーターやプロデューサー、制作のスタッフに引き継ぐ集団なのだなと思っています。
片渕:考え方を広める、後に残すということですね。
大塚:僕らがやったことを特別な一事例ではなくて、アニメ業界に定着させるということが目標です。日本のアニメの中で形作っていくことが使命だなと思っています。
―制作においてのCOVID19の影響はありますか?
大塚:テレビシリーズの方はリモート作業が増えました。変化や影響というよりも、こういう状況でもアニメは作れるのだなということが分かりましたし、その価値も分かりました。こういう状況でもお客さんは待っていてくれる。不便なこともありますが新たな気づきがありました。コントレールの方は偶然にも作品の切れ目だったので。
片渕:まだ現場にたくさんの人がいて仕事しないといけないという状況になる前の段階ですので、密度高く人が集まらなくてもよくてなんとかなっています。ただ、今度は東京ではない場所が舞台なのでロケハンもしたいのですが、県境を越えられないのでなかなかそれはできていません。
―最後にメッセージをお願いします。
片渕:『この世界の片隅に』はオンライン配信もあり世界中でご覧いただける状況です。ただ、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は海外ではほとんど観て頂けてないという状況です。それが皆さんのところへ届くまでには時間がかかるかもしれませんが、『この世界の片隅に』とは違う新しい映画として楽しんでいただける作品です。期待して待っていただけたら嬉しいです。さらに、次の作品作りも始めています。『この世界の片隅に』は、作り手も観客もおよそ75年前にタイムスリップしてその場所を体験する映画でしたが、75年前に行けるならばもっと昔にも行ける。約1000年昔に行ってそこに立っているように実感していただけるような映画を制作できないかと思い、現在は下準備をして脚本を書いているところです。
大塚:我々の後ろにある本棚もその資料です。
片渕:新しい作品作りのために立ち上げたのがコントレールという会社です。ご期待頂けるとありがたいです。
大塚:アニメの良さというものを杉並という場所で今後もずっと作っていくと思います。作品を楽しんでもらいたいですし、COVID19が落ち着いたら「こういう街でアニメを作っているのか」と訪れて欲しいです。杉並に住む中学生やこれから職業を選択していく皆さんにも、その選択の中の一つにアニメというものを根付かされていくことが私たちの目標でもあります。地元の高校が甲子園で活躍するということの様に、杉並で生活している方にとっても杉並で生まれたアニメが世界で活躍することを喜んでもらえるよう、今後も頑張っていきたいなと思います。