西荻窪の駅前に6階建てのビルを構える「こけし屋」。「パパおみやげ忘れないでネ」の広告や、メディアでの紹介も頻繁に目にする「グルメの朝市」などでも、地元住民に親しまれています。そんなこけし屋の包装紙や、素朴な焼菓子をこよなく愛する文筆家の甲斐みのりさんが、こけし屋店長の川上貢さんを訪問。こけし屋の気になることをお聞きしました。
※2022年10月現在 休業中
こけし屋ヒストリー
甲斐:今日はお忙しい中、取材にご対応いただきありがとうございます。私はこけし屋さんが大好きで、仕事で地方に出かける時などによく「こけし屋サブレ」を手土産に持って行くんです。まずはこけし屋さんが現在に至るまでをお聞きしたいと思います。
川上:よろしくお願いいたします。
甲斐:こけし屋さんは、創業されたのが先代の大石總一郎さん、大石よし子さんはその奥様で、現在の経営は、總一郎さんの息子さんの大石剛生(たけお)さんですね。川上さんは何年に入社されたんですか?
川上:私はもうこけし屋に勤めて50年ぐらいになります。今年で70歳です。こけし屋の創業は1949(昭和24)年で、最初は「大石洋品店」という洋服屋でした。創業者は先代の大石總一郎で、早くに両親を亡くしたのですが、早稲田大学の学生だった頃、親戚から「もう大人なんだから、何でも好きなようにやったらどうだ」と言われたそうです。
先代は近所に住んでいて、NHKの「とんち教室」という番組で活躍された柔道家で随筆家の石黒敬七さんに小さい時から可愛いがられていました。それで、石黒先生に、「好きな商売を自分で考えてやってみたらと言われたのですが、コーヒー屋をやるというのはどうでしょうか」と相談しました。そうしたら、たまたま石黒先生が大のコーヒー好きで、「これからはいいと思うよ、じゃ、淹れて持ってきてごらん」と言われたそうです。何度かダメ出しされて淹れなおしたそうですが、とうとう先生からお墨付きをもらって、コーヒー屋さんを始めたのがそもそもの始まりです。
甲斐:コーヒーの淹れ方を研究されたということですね。
川上:そうです。石黒先生はとても顔が広くて、その当時、中央線沿線のこの辺りに文化人がたくさん住んでいたので、「ちょっとこけし屋に集まって一杯やろう」と集まることが多くなり、「カルヴァドスの会」ができました。最初は「こけし会」だったのですが、「もうちょっとおしゃれな名前にしようよ」ということになり、りんごで作ったブランデーの「カルヴァドス」を会の名前にして、集っていました。
甲斐:店名が「こけし屋」という名前になったのは?
川上:店名を考える時に、「みんなに愛される名前にしよう」ということになったんです。こけしは、昔はどこの家にもあって、なじみがあるものでした。洋菓子とフランス料理で、「こけし屋」なんておかしいと思われるかもしれませんが、店名は「喫茶室こけし屋」に落ち着きました。
甲斐:創業当初から現在の場所で営業されていたのですか?
川上:そうです。簡単に振り返ると、1949(昭和24)年に喫茶室、1952(昭和27)年に洋菓子製造販売開始、1953(昭和28)年に2階の座敷をレストランに改造してフランス家庭料理を提供し始めました。現在の6階建てのビルになったのは、1980(昭和55)年の4月です。
甲斐:朝市を始めたのはいつ頃ですか?
川上: 1983(昭和58)年ですね。1966(昭和41)年に別館を作ったのですが、1973(昭和48)年に広い駐車場を確保できて、その後、駐車場を使って朝市を始めました。別館があったところは、釣り堀だったんですよ。
甲斐:えっ、釣り堀を埋めたんですか?!
川上:いえ、釣り堀は掘ってあるような釣り堀じゃなくって、プールみたいなところでした。朝市は、両隣の吉祥寺と荻窪の街がどんどん大きくなって、その谷間の西荻は「なんか静か過ぎてダメだな、何かにぎやかにすることをうちの店でできないか」と話し合って、始まりました。当初は惣菜の販売のみだったのですが、そのうちに「せっかく温かい物を売ってるんだから、食べるところを設けてくれたらいいのに」とお客様からご意見をいただきました。「それはそうだな」と思い、テーブルと椅子をどんどん増やしていって、現在のように、食べたり飲んだりできる形になっていきました。
甲斐:当初からお酒も出されていたんですか。
川上:そうです。食べると、どうしても飲み物が欲しくなるじゃないですか、だからワインとか、ビールとか、しぼりたてのジュースなど、色々とお客様の声を聴きながら工夫していきました。
甲斐:そうだったんですね。川上さんがこけし屋に入られた時には、どういう職種だったのですか。
川上:喫茶室のボーイでした。飾ってあるこけし、黒いのがあるでしょ。昔は店の中の換気がよくなかったし、それに、何よりたばこの煙がすごくって、煙たかった。で、こけしも黒くなちゃったんですね。ボーイ時代は、灰皿にたばこの吸い殻を2本以上溜めてはいけないと教えられていて、しょっちゅう、新しい灰皿に取り替えていました。
甲斐:創業当時、西荻はどんな街だったんでしょうか?
川上:お屋敷街でしたから、日曜日なんか静かだった。
甲斐:そうなんですか!今とは違う雰囲気。若者がたくさん歩いているような街ではなかった?
川上:ないない、今はマンションだらけだけど、昔は広い庭がある豪邸ばかりでした。
甲斐:少しいい暮らしをされている人や文化人などがコーヒーを飲みに来られたんですね。当時は今よりもっと、コーヒーを飲みに出かけることは贅沢なことだったのではないでしょうか。西荻に今あるお店の中では、こけし屋さんは老舗ですよね。
川上:そうですかね。昔はこの界隈にはお寿司屋さんが結構ありました。今はほとんどがなくなってしまいましたね。大きな宴会場を持っているところもあったんですけどね。今は、お寿司屋さんといえば回転寿司ですよね(笑)。
こけし屋とカルヴァドスの会
甲斐:先ほどお話の出た「カルヴァドスの会」についてお聞きしたいのですが、川上さんが入社された頃、「カルヴァドスの会」はまだあったんですよね。
川上:「カルヴァドスの会」の最終回は1983(昭和58)年ですので、私が入社した頃、「カルヴァドスの会」の会合がまだありました。
甲斐:それでは、数々の文化人と交流されていたんですね。「カルヴァドスの会」の活動の頻度はどの程度だったのでしょうか?
川上:最初の頃は、年に数回、会合がありました。そのうちメンバーの先生方がだんだんと忙しくなってきて、年に1度に減ったようです。
甲斐:どんなことをする会だったんですか。
川上:話して、飲んで、大いに騒ぐ会でしたよ(笑)。毎回「カルヴァドス通信」というのを発行していました。
甲斐:それは会員に配布されていたものなんですか。
川上:そうです。会員の方だけに配布されていました。
甲斐:どうしたら「カルヴァドスの会」のメンバーになれたんでしょうか。紹介制ですか?
川上:基本的にメンバーの先生方の紹介です。先生方が「おもしろい会があるから来ないか」と知り合いにお声がけして、メンバーが増えていきました。今、『笑点』に出ている林家木久扇さんなんかは、昔は木久蔵さんでしたけれど、新宿の紀伊國屋書店の田辺茂一社長に「えらい先生方が集まるおもしろい会があるから、ちょっと来て一席うって名を売っていけ」なんて言われてきたようでした。
甲斐:どのような方がメンバーだったんでしょうか。
川上:一代目の会長は、石黒敬七さん、二代目の会長は田辺茂一さんでした。その他にも、『トッポ・ジージョ』でトッポ・ジージョの声をされていた山崎唯さんとロージーの声だった久里千春さんご夫妻なども来られていましたね。あとは、画家の鈴木信太郎さん、彫刻家の植木力さん、棟方志功さん、フランス文学者の小松清さん、作家の井伏鱒二さん、松本清張さん、漫画家の田河水疱さんなんかもメンバーでした。
甲斐:作家、画家、芸術家、経営者とそうそうたる方がメンバーだったんですね。皆さん杉並区にお住まいだったのですか?
川上:「カルヴァドス通信」の会員名簿を見ると、杉並か、杉並ではなくても武蔵野とか、中央線沿線に住んでいる方が多かったようですね。
甲斐:「カルヴァドスの会」の会合で何か印象に残っているエピソードなどはありますか?
川上:暮れに会を実施した時に、先生方に一品ずつ持ち寄っていただいてオークションをやって、NHKの歳末助け合いに寄付しようっていう話になったんですね。ところが、先生方は悪ふざけをする方が多くって、大根2本とか持ってくるんですよ。大根2本をオークションにかけたって、ぜんぜん寄付が集まらないじゃないですか。先生方の愛用品なんかを出品いただければ、値も上がっていいと思っていたのですが、先生方の無邪気さに驚きました。
甲斐:「カルヴァドスの会」の会合は、会費制だったんですよね。このはがきには「会費500円」と書いてありますが、こけし屋さんの儲けはあったのでしょうか?
川上:一応、会費という名目でいただいていましたが、ほぼお店負担です。先生方のご協力やお知恵でお店が大きくなっていったので、感謝の気持ちがありました。
甲斐:メンバーの皆さんは、会合で美味しいものを召し上がったり、仲間とみんなで楽しく過ごす。その代わりに普段お店に足しげく通っていたという関係性だった?
川上:そうですね。通ってくださるだけでなく、お店の発展につながるような色々なアイディアを出してくださいました。
時を重ねた今もトキメクもの
甲斐:こけし屋さんの包装紙、大好きです。鈴木信太郎先生の絵が包装紙になった経緯を教えてください。
川上:最初はコーヒーしかなくって、コーヒーは苦いから甘いものがあった方がいいよねということになり、1952(昭和27)年に洋菓子を始めました。「洋菓子を持ち帰るのに包装紙をどうしたらいいんだろう」と思い、よくいらしていた鈴木先生に相談したところ、「それなら、あの絵を使えばいいじゃないか」と言われ、先生が書かれたオランダ人形の絵を包装紙の柄にしました。それ以来ずっとあの包装紙で、お店のトレードマークです。料理はうちのお店に来ていただかないと食べられないけれど、ケーキは少し遠くまで持ち運べる。持ち歩いているうちに「いい包装紙だな」と思ってもらえることもあったと思います。すぐ近くに東京女子大があるじゃないですか。女子学生の間で、うちの包装紙をブックカバーにするのが流行った時期もありました。
甲斐:紙ナプキンの絵もとっても可愛いですね。やはり鈴木信太郎さんの絵ですか?
川上:ええとね、これは違います。誰だったかな・・・。この紙ナプキンは笠置シヅ子さんの大ヒット曲『東京ブギウギ』と関係があるんです。『東京ブギウギ』は服部良一さんが作曲されたのですが、服部先生は松庵に住まれていて、家に帰る途中、電車の中でメロディーが浮かんだらしい。電車を降りてすぐ喫茶店に入って、紙ナプキンにそのメロディーをメモした。その話が、服部先生の自叙伝に載っていて、お客様から「この喫茶店ってこけし屋さんじゃないの?」と聞かれました。その当時、駅前に喫茶店はうちしかなかった。後日、服部先生の息子さんの服部克久さんがいらした時に、「この本に出てくる喫茶店がこけし屋だって言っていいですかね」って尋ねたら、「当たり前じゃないか、こけし屋さんしかなかったんだから」と言ってくださいました。
甲斐:『東京ブギウギ』のメロディーが音符になったのは、この場所なんですね。「こけしサブレ」の焼き印は、こけし屋さんのマークにもなっていますが、植木力さんの彫刻が元ですか?
川上:そうです。別館に壁画があるんですが、あれは植木力先生の作品です。かつての別館を作る時に、植木先生が寄付してくださったものです。
甲斐:わあ、すごい!とても大きなサイズで、価値がありますね。
川上:旧別館を現在の別館に改築した時に、壁画をそのまま移しました。
甲斐:区内を走るバスに、こけし屋さんの広告がありますよね。あれも大好きです。
川上:「パパおみやげ忘れないでネ」でしょ。
甲斐:そうそう、あれ、すごくいいキャッチコピーだなと思って。
川上:もう相当昔からありますね。あれも、「カルヴァドスの会」の先生方がいろいろとアイディアを出してくださったんですよ。
甲斐:そうなんですね!クリスマスの時にはクリスマス用になったりして、かわいいです。今ある洋菓子の中で、当初からあるお菓子はありますか?
川上:ショートケーキ、それからサバランですね。
甲斐:フランス料理での自慢の味は何ですか?
川上:始めたのがフランス家庭料理ですからね、その当時からあるメニューでは、シチュー類、煮込んだポトフなども残っています。フランス料理を始めた時も、「カルヴァドスの会」の先生方のご支援があって、当時、フランス文学者の小松清さんがメンバーだったんです。その奥様が小松妙子さんで、ご夫妻はフランスに長く住まれたことがあり、奥様が「家庭料理ぐらいなら教えられるわよ」と言われて、教えていただきました。
甲斐:シチューやポトフ、フランスの素朴なお母さんの味みたいなものがあったんですね。お料理の味は、当時からまったく変わっていないのですか?
川上:変えていないです。お客様を裏切っちゃいけないですからね。懐かしい味を求めて来られるお客様を「あれ、ぜんぜん違う」とがっかりさせちゃいけないので。
こけし屋を愛した人たち
甲斐:常連で来られていた先生方のお一人が松本清張さんですね。
川上:松本清張先生は、石神井にお住まいで、西荻までバス一本で出て来られるんですね。これは私が入社する前の話ですが、ある時、たまたまお腹がすいたか何かで、お店に来られて食事をされたそうです。静かで、美味しい、まあ、あの頃は洋食を出す店もあまりなかったので比較することもなかったのかもしれませんが、お口にあったようだった。それがきっかけでうちに来られるようになって、お昼をお店で食べて、その後、コーヒーを飲みながら原稿を書かれていたそうです。店の前がすぐ西荻窪駅なので、夕方になると編集社の人が原稿をとりに来て、うちを書斎替わりに使っておられました。
甲斐:今はメールで入稿できる時代で、原稿の受け取りなどは昭和の時代ならではのエピソードですね。では、こけし屋さんから清張さんの色々な作品が生まれているのですね。
川上:『点と線』が出るまでは、松本清張さんだなんて私たち従業員は誰も知らなかった。『点と線』が売れてお顔が出て、「うちにずっと来ていたのが松本清張さんだったんじゃないか!」と驚きました。先輩の社員たちは「『点と線』はうちで書いた作品じゃないか」と言っていました。恐らく失敗した原稿なんかもあったのではないかと思うけど、そうとわかっていれば、大事にとっておけばよかった(笑)。
清張さんとはわからなくても、「カルヴァドスの会」の先生のお一人だとはわかっていたので、来られている時は、洗い物なんかも音をたてずに、静かにしていました。そういう気配りもあって、気持ちよくペンを走らせることができたのではないかと思います。
甲斐:服装はお着物というイメージですが。
川上:そうです、和服でした。一度見たら忘れられない、特徴のあるお顔でしたね。
その後、「長い間お店を書斎替わりに使って悪かった」と言って、ヨーロッパ旅行をされた記念に、写真と絵をいただきました。石神井から浜田山に引っ越しされた後も、奥様とご一緒に来られていました。私が入社したての頃、1階の喫茶室で仕事をしていた時に、清張さんが店の前にあったパチンコ屋さんから出てきたのを目撃したことがありました。「何か小説のネタにしようと思ってパチンコ屋さんに入ったのかな」なんて思ったこともありました。
甲斐:清張さんも「カルヴァドスの会」のメンバーだったんですか?
川上:メンバーでしたけど、会合には1回もお見えになったことはなかったですね。恐らく、ああいうにぎやかな会は、あまりお好きじゃなかったんでしょう。
甲斐:清張さんがお気に入りのメニューは何だったんですか?
川上:カレーとシチューですよ。
甲斐:他に川上さんが印象に残っている方はいらっしゃいますか?
川上:南荻窪に俳優の菅原文太さんが住んでいたんですね。映画で『トラック野郎』なんかが流行っていた時で、『トラック野郎』に出演されていたのとほぼ同じ服装で来られました。レストランは11時からオープンなんですが、10時ちょっと過ぎにいらして「おお、いいだろう!」なんて言われて入ってきちゃって、菅原文太さんじゃ断れないなと思って「どうぞどうぞ」と案内したことがありましたね。
あと、丹波哲郎さんもお近くにお住まいで、あの方のイメージからは想像できないでしょうけど「俺には甘いカレーを出してくれよ」なんて言われて。イメージと随分違うなぁと思いながら出していましたね。
甲斐:面白いエピソードが尽きませんね!本当にご近所に素晴らしい方がたくさん住んでいたんですね。
川上:あとは、『高校三年生』『北国の春』などを作曲した遠藤実さん。南荻窪に住まれていたのですが、善福寺公園のすぐそばに家を建てられました。「友人ご夫妻を呼んで食事会をやりたいんだけど、こけし屋さんで来て、料理出してよ」と言われて伺ったことがありました。
我々は、通常、お勝手口から入るんですけど、家が建ったばかりで勝手口がどこかわからなくって、仕方がないので玄関から失礼しようということになって、玄関を開けたんです。そうしたら、グランドピアノがあって、新築祝いの生花がたくさん並んでいて、贈り主は、渡哲也さん、牧村美恵子さんなんて名前がずらり。さすがだなと思いました。食事の会場の2階に上がっていったら、国民栄誉賞を受賞した作曲家の吉田正夫妻がいらしていました。
甲斐:華麗なる常連の数々!今とはまた違った、昭和の贅沢な雰囲気が満ちていたのですね。
川上:あとはちょっと違いますが、三笠宮殿下。殿下は歴史学者として東京女子大学の特別講師を務められたことがありました。また、三鷹の中近東文化センターの名誉館長だった関係で、帰りにうちでご飯を食べられたことがあったんです。うちのお料理を結構気に入ってくださったようで、御所専属の和食の板前さんがお店にいらして、「殿下がどうしてもこけし屋さんのお料理をお客さまに出されたいと言っているので来てくれないか」と言われ、伺いました。グラスとかお皿とか一式持って伺ったんですけど、御所のチーフメイドさんに「お皿は持ってこなくてもよかったのに」と言われて用意されていたお皿を見たら、全部に菊の紋が付いているんですよ。使ったら、当然洗って帰ることになるじゃないですか。洗う時にひびでも入れたら打ち首になっちゃう!と思って、用意していったうちの食器を使いました。食事が終わって、別室でコーヒーとプチフールという小さな洋菓子を出す時になって、使っていいと言われた食器の脇にたくさん積んであった銀のお皿に気づきました。「これだったら、プチフールをのせるのに格好いいな」と思って、「このお皿を借りてケーキを出してよろしいですか」と尋ねたら、「それはお皿じゃなくって灰皿ですよ」って言われて、びっくりしました(笑)。
甲斐:その時は何人で行かれたのですか?
川上:少人数の会だったので、私と、調理のスタッフと運転手の3人で行きました。
甲斐:そのようなケータリングのご要望にも応じていたんですね。
川上:そうです。
昔も今も地域のことを考えて
甲斐:最初は文化人の先生方のごひいきのお店で、だんだんと時間が経つうちに、こけし屋さんの味に惹かれた人たちが増えて、地元に根付いていったんですね。
川上:そうですね。この辺り、豪邸が多いっていう話をしましたけれど、子供を一度こけし屋に連れていって、食事をさせようっていう人が多かった。昔は、フランス料理ってなかなか家庭では食べられなかったじゃないですか、小さい頃に連れてこられた子供が、今は大人になって「ここの味が忘れられない」と来られます。
甲斐:子供が成長して、また家族を連れてやってくるんですね。
川上:そうそう。親子三代で来られたりしますよ。
甲斐:わー、素晴らしいですね。
川上:小さいお子さんがメニューを見ないで「あれください」なんて言うと、「あ、この子はよく来てくれているんだなあ」と思ってしまいます。普通はメニューを見て、どれにしようかと考えるのに、最初に食べた料理やケーキが、思い出に残っているんでしょうね。大人でもメニューを見ずに「これください」なんて言われると、「ああ、この人は昔に来られたことがある方なんだな」と思いますね。
甲斐:小張精米店とのコラボでお米の販売を開始したのは、最近ですよね。
川上:小張精米店は、オリジナル商品の「お米の2合ギフト」がグッドデザイン賞を受賞した南荻窪のお米屋さんですが、実は社長の親戚なんですよ。
甲斐:すごくかわいいパッケージですよね。ところで川上さんは、生まれは杉並ですか?
川上:私は国立市の生まれです。今は立川市に住んでいますけど、ずっと中央線沿線です。通勤に中央線を使っていますが、車窓から景色を眺めると、時代の移り変わりを感じますね。昔はどこの家も庭が広くて、端午の節句の時には鯉のぼりが見えた。今は滅多に見かけない。あと、お正月だって、大きな家の前には日の丸の旗が掲げられていた。今は見かけないでしょ。
甲斐:確かに、門松も見かけないですね。
川上:変わってしまったんだね。
甲斐:そういう物の代わりではないですが、ひなまつりや端午の節句などを、デコレーションケーキで祝ったりするようになってきたのかもしれないですね。やっぱり皆さん、お誕生日やお祝いごとに、こけし屋さんでケーキを買われますよね。
川上:そうですね。駅前で便利だし。今はどこの駅でも駅ビルなんかができて、駅ビルには洋菓子屋さんって必ずあるんです。でもそういうところのケーキは、1個400円も500円もしたりする。うちのはまだ200円台ですからね。例えば1000円でお土産にケーキを買って帰って、箱を開けたときに2個しかないと選択肢が少なくって寂しいけど、うちのだったら4つ入る。選択肢が多い方が、楽しみがあると思うんですよね。駅ビルにあるお店のケーキが高いのは、ある意味仕方がない。だって家賃が高いし、工場が別だから運送費もかかる。
甲斐:こけし屋さんがケーキをリーズナブルな価格で提供できるのは、同じビルで作っているからですね。
川上:そうです。自社ビルなので、家賃もかからないしね。
甲斐:今後もこけし屋さんは、この西荻の街に根差していかれるという展望でしょうか。
川上:お客様からいただいて一番うれしいのは「こけし屋さん、昔から味も値段も変わらないね」という言葉です。いつまでも変わらずに、皆さんに愛していただけるお店を目指したいですね。
お待ちかねの試食タイム♪
甲斐:今日は色々とお聞かせいただき、ありがとうございました。最後に松本清張さんがお好きだったお料理を食べさせてください!
川上:今日は「牛肉の赤ワイン煮込」と「牛舌の赤ワイン煮込」を甲斐さんだけの特別メニューとして、半分ずつ用意しました。
甲斐:ありがとうございます。いただきます。ん、とっても柔らかいですね。香りがすっごくいい。うーーーーん、おいしい。ソースは赤ワインですよね?
川上:赤ワインとデミグラスソースです。煮込むので時間がかかるんですよ。
甲斐:お肉がホロホロと崩れます。おいしい。ちなみに川上さんが好きなメニューは何ですか?
川上:オニオングラタンスープ。玉ねぎを長時間かけてあめ色に炒めて、その上に2種類のチーズを乗っけてオーブンで焼くんです。
甲斐:オニオングラタンスープ、私も好きです。でも家ではなかなか作れないですよね、時間がかかるし、玉ねぎを焦がしちゃいけないって思うし。
川上:家庭で作るには、石油ストーブが便利ですよ。玉ねぎを鍋に入れておいて、ちょっとかき混ぜてほっておいて、それだけであめ色玉ねぎができます。でも今はもう石油ストーブがあるお宅も少ないかな。スープの上にパンを焼いてから置くのもコツです。焼いたパンだと、スープを吸わないから。
甲斐:お料理のコツまで教えていただいて、今日は本当にありがとうございました。
- こけし屋
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住所 東京都杉並区西荻南3-14-6 電話 03-3334-5111 営業時間 現在休業中 定休日 火曜(祝日を除く)